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地名シリーズ1 原(はる・ばる)(再)

2022.11.29

を(はら)でなく(はる・ばる)と読む地名は、地元感覚では、珍しくありませんが、中国地方、四国地方には全くなくて、九州では、300箇所程度もある」とのことです。歴史学者が注目しています。意味は墾る(はる)から来ていて開墾地であると考えられます。福岡県でも、前原(まえばる)・春日原(かすがばる)等たくさんありますが、京築の原(はる・ばる)のつく地名を紹介します。
北から苅田町与原(よばる){御所山古墳があります}、苅田町南原(みなみばる){高城山のふもとです}、旧名で行橋市新田原(しんでんばる){行橋市道場寺(どうじょうじ)など果樹園が盛んです}、旧名で福原(ふくばる){八景山の近くで、長者原(ちょうじゃばる)遺跡があります}、みやこ町勝山宮原(みやばる)、みやこ町上原(かんばる)・下原(しもばる){上坂廃寺跡の近くです}、築上町檪原(いちきばる){本庄(ほんじょう)より城井(きい)川上流}、上毛町上唐原(かみとうばる)・下唐原(しもとうばる){山国川中流域に西岸です}
開墾地は誰のもの(北部九州)】中国後漢の黄巾の乱(184年)頃は、北部九州は大陸の影響を受けていますので、開墾地は各地方豪族のものであると考えられます。ただし、有力者も3世代くらいで交代していたようです。527年磐井の乱ののち、蘇我氏の勢力が強くなり、中央集権国家のものとなっていきます。大宝律令(701年)の班田制で国司のもと、すべて国のものにしようとしますが、うまく機能せず、三世一身の法(723年)や墾田永年私財法(743年)で開墾者のものになり、墾田地系荘園が発生します。11世紀には地方豪族が開発して、中央の貴族や寺社寄進する寄進地系荘園ができます。
☆写真は東九州自動車道建設工事で発掘された、福原長者原(ふくばるちょうじゃばる)遺跡です。
☆騒がないようにしましょう。来た時よりも美しく!

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