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郷土の山007008(四方台、貫山)

2018年05月28日

◼場所:平尾台の北部/福岡県北九州市小倉南区

◼地質は、石灰岩と花崗岩(平尾花崗閃緑岩)の境あたり。中峠の北側に位置する、四方台あたりから貫山や水晶山や等覚寺など、花崗岩の地域に移る。(石灰岩やアプライト岩脈[半花崗岩]も分布)。

◼約150年前の幕末、禁門の変をきっかけに、幕府と長州藩との間で戦いがおこった「幕長戦争」。

◼第二次長州出兵では、1866年(慶応2年)6月7日の「大島口の戦い」(現・山口県大島郡周防大島町、熊毛郡平生町あたり)をはじまりとして、6月14日開戦の「芸州口の戦い」、6月16日開戦の「石州口の戦い」、そして6月17日開戦の「小倉口の戦い」の四方面で戦いが展開された。「四境の役」「丙寅の役」ともよばれた。

◼平尾台は「小倉口の戦い(丙寅の役)」の後半における歴史の舞台のひとつ。

◼「小倉口の戦い」(1866年)は、関門海峡周辺地域における6月17日の田野浦・門司の戦いからはじまり、7月3日の大里、7月27日の赤坂などで戦いが展開。そして、8月1日の小倉城自焼後は、小倉藩は田川郡へ退き対応。

◼地形を防御として、平尾台の山脈の東西、島村志津摩の守る田川郡企救郡境の金辺峠やその北側の山のせばまった地域の高津尾(秋月街道沿線)、小宮民部の守る京都郡企救郡境あたりの狸山峠(中津往来沿線)の二方面、および企救郡各地、豊前海周辺地域(宇島港沖)などにおいて戦いが展開。長州藩は足立山山麓を拠点とし9月末まで一進一退の攻防が続いた。が、10月、長州藩側から高津尾など各地の台場を奪われることとなる。長州藩は、平尾台北部貫山などを経て、金辺峠を見下ろす平尾台南西の龍ケ鼻まで進出。小倉藩は止戦をせざるを得ない状況となってしまった。
休戦、交渉が積み重ねられ、1867年1月23日、講和が成立し、幕長戦争は終結した。幕府側が敗れたことで、幕府の権威が失われ、幕府解体への転換点となった。

◼幕長戦争の経過や戦後処理の過程で、企救郡、田川郡香春、そして仲津郡錦原台地(豊津台地)へと小倉藩の中枢は、移転することとなる。小倉藩の幕末維新の歴史舞台をたどると、困難な場面で、避難した人たちの受け入れ先、地域の建て直し、人材育成などをいかにして対応したのか、学ぶ機会になるのではなかろうか。

◼写真1(花崗岩が点在する貫山山頂[標高711.7メートル。平尾台北部のいちばん高いところ。瀬戸内海周辺地域が望める絶景ポイント。東側眼下には、曽根平野や狸山峠や松山や苅田港や北九州空港方面。])

◼写真2(貫山[南の四方台より望む]。江戸時代後期(1821年)に完成した「大日本沿海輿地全図」の「伊能中図」等に赤い色の「方位線」四本と方位の文字が、貫山の場所に記されている。九州測量を目的に実施された第七次八次測量で、街道沿線や海岸線の測量地点から、伊能忠敬測量隊が、測量方位目標として仰いだ山のひとつ。)

◼写真3(香春岳や龍ケ鼻や大平山や福智山[四方台の西側尾根より。台形のかたち龍ケ鼻の向こうが金辺峠])

◼写真4(貫山と四方台[九州自然歩道沿線、大平山あたりより望む])

◼参考文献:三宅紹宣『幕長戦争』吉川弘文館2013年発行、白石壽『小倉藩家老島村志津摩』海鳥社2001年発行、小野剛史『峠を出でて奇兵隊を撃て幕末小倉藩物語』幻冬舎2017年発行、山口県編集発行『山口県史史料編幕末維新4』2010年発行※小笠原文庫の「狸山備配図」「金辺峠陣取図」など絵図が掲載されており、1866年の平尾台周辺地域の状況を知るのに参考となる。、パンフレット『150周年四境の役大島口の戦い』四境の役150周年記念事業実行委員会2016年発行

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