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宇留津城跡

2013年08月31日

宇留津城跡

〜豊前国築城郡 加来与次郎の居城〜


天正14年(1586)、大友宗麟は島津氏の侵攻に耐えきれず上洛して豊臣秀吉に援助を求めた。
これが天下統一を目指す秀吉にとって九州征伐を正当化する格好の理由となった。
天正14年10月、秀吉の先遣隊である黒田官兵衛 達は『長野・山田・広津・中蜂屋・時枝・宮成』等、豊前の諸豪族の人質をとり、島津攻撃軍に組み入れた。
彼らはかつて大友氏に反抗した国人であること、豊前国で毛利方として活動した豪族達であった。
このことから上方勢の九州入り以前から毛利方の準備工作が進んでいたという事になろう。
このころ秀吉の政策は、自己の陣営に加わる国人については当知行を安堵するというものであったようだ。
吉富町天仲山に居城があった広津鎭種はこの朱印状を官兵衛から受けている。

同年11月7日宇留津城の攻防戦が行われた。
「陰徳太平記」によれば加来城主は香春城の高橋元種(薩摩方)に人質を入れていたので降参できなかったというが高橋氏は降参しているのでよくわからない。
この戦いでは軍監官兵衛以下、毛利、小早川、吉川の中国勢、それに長野、宗像 等現地軍を加えた2万8000余騎の大軍が、加来一族が立て篭もる宇留津城を攻め崩し、城主以下1000余人の首をはね、ほかの男女は残らず「ハタ物」に掛けたという。無残なことである。

「川角太閤記」の記述から推定すると当時、宇留津城には薩摩方でも勇猛な「野郎部隊」が駐屯していた。加来与次郎は「野郎大将」だった。
官兵衛は治安を乱す「野郎大将」以下総員を根絶やしにすることにしたらしい。
(鎮西宇都宮氏の歴史:則松弘明 著 より抜粋引用)

[野郎:日常倫理に従わず、生計のために夜盗強盗追剥も行う。島津氏が活用した無給の武士階層]
このような無残な措置は領民の同情を引いて偲ぶ祭り等が伝承されるものだがここにはそのような事がないので根拠なしとは言えないだろう。

現在の宇留津城跡付近空中写真を示す(メイン画像)
宇留津城があった場所は定かではないが、宇留津公民館 の庭に案内プレート(左画像)と落城400年の折に建立された石碑(中央画像)がある。後方は須佐神社である。
濠跡を東から見ると刈入れ前の水田が広がり雀の大軍が稲穂をついばんでいた(右画像)

城は城井戸の遺構があったとされる專廣寺付近にあったとする説が主流。
しかし、防御を目的とする濠が海岸側にあるのは不自然な感じだ。須佐神社宮司さんのお話では宮山地内から焼けた土が出たという。海岸側に城があったかもしれない。

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