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国の史跡に指定されることになった、「福原長者原官衙遺跡」

2017年07月28日

「福原長者原官衙遺跡」が、国の史跡指定として答申されたことを受けて、
美夜古郷土史学校で行橋市教育委員会:小川秀樹氏が講演を行った。

平成8~9年、行橋市福原の県道拡幅工事で、遺跡の大きな溝の一部が発見され、
何かの役所跡ではないかと推定された。
その後、平成22~25年にかけて九州道の事前調査が行われ、
遺跡周囲に巡らせた溝と、役所と思われる建物の様子が確認された。

平成24~27年の本格的な調査によって掘立の柱穴が確認され、
南門(正門)が12本の柱で構成されている八脚門であることが明らかになり、
出土品から7世紀の終わりから8世紀初めにかけて造営された行政施設であることが分かった。

福原遺跡には三つの時代の遺構があり、二度の改修工事が行われたと考えられた。
なかでも二期目の遺構は三つの中で一番大きく、150m四方の大規模な溝と、
その内側には廻廊をめぐらせた中に建物が並び、大宰府政庁に匹敵する規模であった。

豊前平野のみやこ町国作には、豊前国府政庁として9世紀ごろの地方行政機関が
発見されている。
福原官衙遺跡はその前の時代に造られ、7世紀から8世紀にかけて国府政庁の
役割を担ったと考えられ、構造が694年に造営された奈良の藤原京に良く似ており、
藤原京と同じ寸法の物指しが使われ、藤原京をモデルにした官衙で、
国府を凌ぐ重要な役目を果たしていた、と推測されている。

古代の京都平野は大きく湾が入り込んで、海岸の草野津は九州北部の重要な港であった。
畿内勢力が難波津から船で出れば、瀬戸内海を経て真っ先に京都平野にたどり着く。
ヤマト王権は九州統一の足掛かりとして京都平野の豪族と結びつき、
それによって地元豪族も力をつけた。

苅田町の御所山古墳、みやこ町の甲塚方墳は九州地域最大級の古墳で、
ヤマト王権と密接に結び付いた豪族がここに居たことを裏付けている。

福原遺跡は格式が高い八脚門を持ち、150m四方の大規模かつ重要な行政施設であった
と推測されるが、記録がなく出土品も少ない。
福原長者原官衙はどのような機能を持っていたのか、これからの解明が待たれる。

8月5日(土):行橋市中央公民館で、国立歴史民俗博物館教授:林部均先生による
「福原長者原官衙遺跡の歴史的意義~古代国家の地域支配を考える~」と題した記念講演が、
14時から開催されます。(入場無料です)

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